今週、女子テニス世界ランキング現在1位の、オーストラリアのアシュリー・バーティが25歳で引退するという発表がありました。
ええ、25歳って、まだまだこれからじゃない😨
と思ってしまうのが日本人としての普通の感覚なんじゃないでしょうか。
日本で、プロのトップ選手として極めるということは、人生そのスポーツにかけ、できるところまでやり切る(やり切ってくれる)ところまで行くことが称賛に価するもの。
またはそういうものだと刷り込まれています。
例えば、野球なら50歳近くまで大リーグで活躍したイチロー。
サッカーなら、55歳にして未だ現役の、キングカズこと、三浦かず。
そして、冬のスポーツで「レジェンド」とまで賞賛されている、スキージャンプの葛西選手はまもなく50歳。
一昔のスポーツ界では信じられないほどスポーツ寿命が延びてますね。
なので、25歳なんてまだまだ10年、もしかしたら20年も競技できるじゃない、
と思ってしまうもの。
しかし、オーストラリアのバーティはそう思っていないようです。
25歳にして、次の人生を見据えたのか、あっさりの引退表明。
「別の夢を追いかける」って言い切っています。
凄すぎる。トッププレーヤーとして長年極めることよりも他のやりたいことを一から始めるなんて(と勝手に想像してますが)。
ふと、そういえば、日本のトップに輝く多くの選手が、たまにテレビのバラエティー番組に出たときの発言で、だいたい皆さん同じようなことを言っていたのを思い出しました。
「競技を極めるために、それ以外のことを一切してこなかった」
つまり、スポーツの競技以外の世界を知らなさすぎなんですね。
私はそのような選手の知り合いがいないため直接話したこともないため、どこまでスポーツ以外の世界を知らないと思っているのはわかりませんが、少なくとも海外、特にオーストラリアの選手でこのようなコメントを過去に聞いたことがないなあ、とふと思いました。
スポーツを極めるため、時間の全てを練習や試合につぎ込んでいるとは思いますが、プライベートな時間も確保している(休養も兼ねてだと思いますが)ように思えます。
もしそのような時間が取れない場合、今回のバーティ選手のように引退して、自分の時間を確保することを選択するのかもしれませんね。
自分の時間を確保すること。それはイコール自分の人生に時間を掛けていると言ってもいいかもしれません。
その点、日本人は、「他人が望む」のならそのための時間を使う、自分の時間(プライベート)は二の次、というのが標準のような気がします。
だから、競技人生があまりに長く続くと、その関係でしか生活の糧が得られなくなってしまうんじゃないでしょうか。
野球やサッカーなら、引退して監督・コーチ、テレビの解説者、地元で広告塔になる、
くらいしか就職先がなくなってしまう。。。
競技の続け過ぎの弊害が生じるってなんだか変ですよね。
恐らくオーストラリアでは、自分の世界を自分で切り開くことで、もっと豊かな人生を歩んでいるような気がします。
より多くの収入を長い競技人生から得るのではなく、豊な人生を楽しむ。
なんだかそちらの方が楽しそうですね。
そんなことを教えてくれるのもオーストラリアなんですよね。
もしかしたらオーストラリアの方がいろんな生き方ができるように思えます。
そのあたりは私自身ももっと深く掘り下げたいと思います。
ふと、昔行ったことのある、世界遺産シャーク湾の写真を見たくなり、急にイルカに餌をやりたくなってきました(^^)/