写真は最後の給水ポイント。
用意している人はみなボランティア。
転がっているのはランナーたちが飲み終えた空のプラスチックカップ。
本来捨てるはずのボックスがあるが、ランナーはそこまで気が回らない。
というか、もうその場で捨てるのが精いっぱい。
今回マラソンを走って、初めて分かった。
喉が渇いた。お腹が空いた。
そう思ったときに、ついに現れた、最後の給水ポイントだと思った。
陽も真上に来たのか気温の上昇を感じていたところだ。
ここでは落ち着いて(つまり立ち止まって)ゆっくりと口に含み、それから何口かゆっくりと飲みこんだ。
プラスチックカップにはまだ半分以上水がのこっているので、左手に水を掛け、その後に顔に少々掛け、首に浸し、残りは「ごみ箱に」捨てた。
周囲は足元にそのまま捨てられたプラスチックカップの山に加え、投げ捨てられた水もあふれ、おかげで周囲よりも気温が低い気がする。
トイレには行く気にもなってない。ここでなったとしても残り5キロを切っている?
そうなのだ。16キロ過ぎてから距離を示す表示がどこにもなく、いったいあと何キロ?
今何キロ? か想像に任せるしかなかった。
公園内でのランニングはさわやかで清々しい。
心は穏やかで行き切れもしていない。
しかし肉体は限界を迎えていたようだ。
ひざが上がらない。足が前に出ない。
上半身を支える力に入っていない。
一緒のペースで走って来た周囲のランナーも同じようなペース。
見ていてなんとなく走り方が弱弱しい。
ということは、自分もそのように見られているということだ。
覚悟を決めて、というか無理をせずに歩いている人も大勢だ。
そんな姿を見て励ましたくなったのかわからないが、沿道からは
「ナイスラン」
だけではなく、
「グッドジョブ!」
というキーワードが。
そうか、ここまで来たんだから、グッドジョブか。いい仕事してるんだな。我々ランナーは。
でも、グッドジョブなのはランナーだけではない。
ここで少々触れておくと、給水ポイントや交通整理、その他大勢のボランティアスタッフによりこのメルボルンマラソンが成り立っているのだ。
給水ポイントでは、大人の男女に混じって、大学生、高校生、更に中学生もたくさんプラスチックカップをランナーに手渡ししていた。
1回は敢えて中学生くらいの若者から受け取った。
若者君、どうもありがとう。きっといい大人になると思うよ。
それから第一線を離れたおじさん、おばさんたち。
1か所の給水ポイントには20名はいたと思うので、総勢300名は働いていたんだろう。
みな見事な手さばきで感心した。
プラスチックカップがどれくらいごみ箱にきちんと捨てられているか、中身を確認し、最後の給水ポイントをあとにした。
スマホの計測ツールから、日本語で「19キロ」のアナウンスが聞こえてきた。
(今までは回りのざわめきでまったく聞こえなかったのだ)
静寂の中のコンピュータがしゃべる日本語が響く。
これが正しければ残りは2キロ。
さあ、いよいよだ。
ところで、1か所当たり、何リットル用意されていたのかな?